7月5日。
昨夜はホテル前の道路で若者たちが夜遅くまで語り合い、笑い声が絶えなかった。
週末にはよくある光景だという。
旅の疲れもありぐっすり眠りたいところであったが、睡眠時間はごくわずかであった。
それでも朝を迎えると、不思議と眠気は感じない。
今日はいよいよ、この旅の最大の目的地での学びが始まるのだから。
ホテルから車で15分ほど。
木々に囲まれた静かな場所に、麦の家(Kornets Hus)が姿を現した。
建物を目にした瞬間、思わず目を見開いた。
木とレンガを基調とした温かみのある建築は、まるで昔からこの土地に佇んでいたかのように周囲の風景へ自然に溶け込んでいる。
館内へ入ると、参加者から次々と歓声が上がった。
「すごい!」「素敵!」
――誰もがカメラを手に取り、夢中でシャッターを切っている。
展示スペース、ワークショップ、開放感のあるカフェ。
ここは単なる展示施設ではない。
穀物を見て、触れて、学び、味わうためにつくられた空間そのものであった。
私自身も、これから始まる学びへの期待に胸を躍らせていた。
館内へ入ると、私たちを温かく迎えてくださったのは、アウリオン(Aurion)社の社長であるブリアン・トルストルップ・ニュボ(Brian Tholstrup Nybo)氏、そしてKornets Husのディレクターを務めるリッケ・アイセンハート(Rikke Ejsenhardt)氏であった。
穏やかな笑顔で私たち一人ひとりを迎える姿からは、この場所が単なる研修施設ではなく、「穀物の文化を未来へ伝えたい」という人々の情熱によって築かれてきたことが自ずと伝わってきた。
その温かな歓迎を受け、私たちの本格的な学びの一日が始まった。
アウリオン(Aurion)社は1974年、農薬依存の農業への疑問から誕生した企業である。
「良いパンは、良い穀物から生まれる」という絶対的信念のもと、ルドルフ・シュタイナーの思想に基づくバイオダイナミック農法を取り入れ、添加物や製造助剤に一切頼らないパンづくりを続けてきた。
効率よりも本質を選ぶ
――その姿勢は創業当時から揺らぎがない。
ブリアン社長は、実物の穀物を手に取りながら一つひとつ丁寧に解説してくださった。
ライ麦と一口に言っても、その種類は実に多様である。
粒の大きさ、穂の形、香り、そして焼き上がったパンの風味に至るまで、それぞれに際立った個性がある。
模型を使った分かりやすい解説の後は、実際にアウリオン(Aurion)社の商品を手に取りながら、その特徴について深く学んだ。
知識の習得だけでは終わらせない。それこそが麦の家における学びの神髄であった。
続いて施設の庭へ出る。
そこには実際に栽培されているライ麦圃場が広がっていた。
座学で学んだ穀物に、自らの手で直接触れる。
風に揺れるライ麦を前にすると、「パンづくりは畑から始まっている」という、ごく当たり前でありながら根幹をなす事実を改めて痛感させられる。
いよいよ実践の時間である。
参加者は四つのチームに分かれ、それぞれ異なるライ麦を使ってロブロを仕込むことになった。
私たちが比較検証したのは、以下の四種類のライ麦である。
古代ライ麦
バイオダイナミックライ麦
焼き畑ライ麦
春蒔きライ麦
同じロブロであっても、原料が変われば香りも味わいも、生地の仕上がりも一変する。
その違いを実際に比較検証することが、この実習の真の目的であった。
そして、ライ麦そのものの旨みを感じることができるよう、原材料はライ麦と塩のみ。
余計なものは加えず、ライ麦全粒粉と砕きライ麦をライサワー種で発酵させる古来の手法を利用した。
さらに興味深かったのは、焼成型による違いの検証である。
アルタイト製、ブナ材、そして耐熱強化樹脂「EXOGLASS (エグゾグラス)」。
同じ生地であっても、型が変わることで焼き上がりにどのような変化が生じるのか。
四種類のライ麦と三種類の型を組み合わせ、合計十二通りのロブロを比較するという、誠にエキサイティングな実験であった。
パンづくりとは単なる経験則だけでなく、仮説を立て、比較し、検証を繰り返す学問的な積み重ねでもある。
麦の家の学びには、そうした研究者さながらの探求心が息づいていた。
この日は計量、ミキシング、型入れまでを行い、生地は低温でゆっくりと発酵させる。
焼き上げは翌日。
急がず、時間を味方につける。
ロブロづくりに近道など存在しないことを、生地が静かに教えてくれているようであった。
実習を終えた後は、麦の家のカフェで昼食をいただいた。
目の前に並んだ色鮮やかなスモーブロを前に、参加者からは自然と笑みがこぼれる。
どれも美しく、そして驚くほど素材本来の味が活かされている。
穀物を学ぶ場所だからこそ、その穀物を最もおいしい形で味わう。
展示と実習、そして食事までが一つの体系的な学びとしてつながっていることに深く感銘を受けた。
ふと周囲を見渡すと、ゆっくりと会話を楽しみながら食事を堪能する人々の姿があった。
時間に追われる様子は微塵もない。
食事とは単に栄養を摂取するためだけのものではなく、人と人との絆を育む時間なのだ。
社会的な安心感があるからこそ、心にゆとりが生まれる。
そのゆとりが、人への思いやりや穏やかな表情を育んでいるのだろう。
デンマークの人々の豊かさとは、単なる経済的豊かさではなく、「時間の豊かさ」に支えられているのではないか
――そんな思考に耽った昼食であった。
旅行者・手記執筆:杉江正治(ママパン事業責任者)